非被災地のための社会心理学(7)素朴な現実主義
地震以後3週間が経とうとしています。少なくとも非被災地では一定の落ち着きの形成、もしくは日常的なルーチンの形成がなされつつあると感じます。これまでのエントリが仮定していたような認知的多忙が少し解消されてきているのかもしれません。
他方で、未だ復興への道筋は見えません。それに伴い、今後私たちがどうあるべきか意見表明と議論が活発になされているように思います。このような議論は、かつての政治的無関心と比べると望ましいことだと思います。一方で、生産的でない対人葛藤が増えるだろうと予測されます。その原因のひとつとして、人が持つ「素朴な現実主義(naive realism)」があります。
また、前回のブログエントリで、ヒューリスティック的判断や歪みについて啓発をしても意味がないかもしれないと書きました。理由の一つが、素朴な現実主義です。
素朴な現実主義は、次の3つの信念を指します(Ross & Ward, 1995)。
1.自分は、あらゆる出来事を客観的現実そのままにみている。自分の態度や信念は、手に入った情報を冷静で、歪みがないように理解した結果である。2.自分と同じ情報にアクセスした上で、筋道を立てて熟慮し、偏りなく吟味できれば、他者も、自分と同じ反応、行動、意見にいたる。
3.自分と相手の意見が合わないときは、(1) 他者は自分と異なる情報に接触した、(2) 他者は怠慢で、理性的でない、(3) 相手は歪んでいる、のいずれかであると考える。
その証拠を見ていきましょう。Pronin, Lin, & Ross(2002)は、社会心理学で明らかになっている認知バイアスを実験参加者に紹介し、バイアスのかかりやすさを自分と周囲の人とで比較させました。その結果、自分は周囲の人よりこれらのバイアスを示さないと考えていました。
また、Robinson et al.(1996)は、意見が対立する議論に関して研究しています。この研究では、いずれの立場の人も、自分たちの解釈の偏りは相手側の解釈の偏りよりも小さい、と考えていました。さらには、自分自身の解釈は、自分と同じ立場の人たちのものよりも、自分たちの主張の影響を受けておらず、偏っていないと考えていました。
これらはなぜ生じるのでしょうか。多くの認知バイアスが非意識的である点にカギがあります。バイアスが非意識に生じるので、認識や判断を歪ませようと「意図していない」「思い当たる節がない」と考えるのです(Pronin, Gilovich, & Ross, 2004)。自分は認識や判断を歪ませようと考えていないので、バイアスが生じるはずがないと思うわけです。
ここには、自らの行動評価に自分の意図や心的状態を考慮するという傾向が働いています(Pronin, 2009; Kruger & Gilovich, 2004)。その一方で、他者に関してはこのような意図や心的状態は評価に含まれにくいこともわかっています。その結果、自他の歪みの認識に差異が生じるのです。
さらに、Ward & Ross(1991)の研究では、自他の意見の相違に関して、相手が自分と同じ情報に接触していない場合は、相手が自分と同じ情報に接触している場合と比べて、相手のパーソナリティや能力を否定的に見ないことが示されています。これは、素朴な現実主義における残り二つの信念の存在を示唆します。同じ情報に触れていないときに相手を悪く見なさないのは、まず情報の非接触を問題にしているからと解釈できます。見方をかえると、同じ情報に触れても意見の相違があった場合、自分ではなく相手に問題があると考える可能性を示唆しています。
「自分は間違っていない、相手が間違っている」という考えは、おそらく相手への説得、啓発を強く動機づけることでしょう。ここで終わるならば、好ましい帰結を生むとも思えます。しかし、相手は自分と同じように「自分は間違っていない、相手が間違っている」と考えています。お互い説得しあうだけで、議論は平行線をたどり、お互いを敵視し、蔑んでしまう危険性があります。
話し合うことはとても重要です。でもそのときに、自分が誤っている可能性を、自分が考えるよりも大きく見積もることが必要です。この自分の意見に対する不審の先に、建設的な議論が待っていると思います。
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