震災関連

2011年3月31日 (木)

非被災地のための社会心理学(7)素朴な現実主義

地震以後3週間が経とうとしています。少なくとも非被災地では一定の落ち着きの形成、もしくは日常的なルーチンの形成がなされつつあると感じます。これまでのエントリが仮定していたような認知的多忙が少し解消されてきているのかもしれません。

他方で、未だ復興への道筋は見えません。それに伴い、今後私たちがどうあるべきか意見表明と議論が活発になされているように思います。このような議論は、かつての政治的無関心と比べると望ましいことだと思います。一方で、生産的でない対人葛藤が増えるだろうと予測されます。その原因のひとつとして、人が持つ「素朴な現実主義(naive realism)」があります。

また、前回のブログエントリで、ヒューリスティック的判断や歪みについて啓発をしても意味がないかもしれないと書きました。理由の一つが、素朴な現実主義です。

素朴な現実主義は、次の3つの信念を指します(Ross & Ward, 1995)。

1.自分は、あらゆる出来事を客観的現実そのままにみている。自分の態度や信念は、手に入った情報を冷静で、歪みがないように理解した結果である。

2.自分と同じ情報にアクセスした上で、筋道を立てて熟慮し、偏りなく吟味できれば、他者も、自分と同じ反応、行動、意見にいたる。

3.自分と相手の意見が合わないときは、(1) 他者は自分と異なる情報に接触した、(2) 他者は怠慢で、理性的でない、(3) 相手は歪んでいる、のいずれかであると考える。

その証拠を見ていきましょう。Pronin, Lin, & Ross(2002)は、社会心理学で明らかになっている認知バイアスを実験参加者に紹介し、バイアスのかかりやすさを自分と周囲の人とで比較させました。その結果、自分は周囲の人よりこれらのバイアスを示さないと考えていました。

また、Robinson et al.(1996)は、意見が対立する議論に関して研究しています。この研究では、いずれの立場の人も、自分たちの解釈の偏りは相手側の解釈の偏りよりも小さい、と考えていました。さらには、自分自身の解釈は、自分と同じ立場の人たちのものよりも、自分たちの主張の影響を受けておらず、偏っていないと考えていました。

これらはなぜ生じるのでしょうか。多くの認知バイアスが非意識的である点にカギがあります。バイアスが非意識に生じるので、認識や判断を歪ませようと「意図していない」「思い当たる節がない」と考えるのです(Pronin, Gilovich, & Ross, 2004)。自分は認識や判断を歪ませようと考えていないので、バイアスが生じるはずがないと思うわけです。

ここには、自らの行動評価に自分の意図や心的状態を考慮するという傾向が働いています(Pronin, 2009; Kruger & Gilovich, 2004)。その一方で、他者に関してはこのような意図や心的状態は評価に含まれにくいこともわかっています。その結果、自他の歪みの認識に差異が生じるのです。

さらに、Ward & Ross(1991)の研究では、自他の意見の相違に関して、相手が自分と同じ情報に接触していない場合は、相手が自分と同じ情報に接触している場合と比べて、相手のパーソナリティや能力を否定的に見ないことが示されています。これは、素朴な現実主義における残り二つの信念の存在を示唆します。同じ情報に触れていないときに相手を悪く見なさないのは、まず情報の非接触を問題にしているからと解釈できます。見方をかえると、同じ情報に触れても意見の相違があった場合、自分ではなく相手に問題があると考える可能性を示唆しています。

「自分は間違っていない、相手が間違っている」という考えは、おそらく相手への説得、啓発を強く動機づけることでしょう。ここで終わるならば、好ましい帰結を生むとも思えます。しかし、相手は自分と同じように「自分は間違っていない、相手が間違っている」と考えています。お互い説得しあうだけで、議論は平行線をたどり、お互いを敵視し、蔑んでしまう危険性があります。

話し合うことはとても重要です。でもそのときに、自分が誤っている可能性を、自分が考えるよりも大きく見積もることが必要です。この自分の意見に対する不審の先に、建設的な議論が待っていると思います。

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2011年3月25日 (金)

これまでの記事の批判的ふりかえり(2) 啓発に効果はあるか?

これまでのエントリでは、認知的多忙状態ではヒューリスティック的な判断を行いやすく、またバイアスも生じやすいことを指摘してきました。そこには、このような指摘に同意してくださった方は、判断結果に懐疑的になり、適切な修正を加えてくださるだろう、という期待があったように思います。つまり、啓発には一定の効果があると考えていたことになります。

批判の二つ目は、このような啓発に効果があるのか、というものです。個人的には、一定の効果があると「信じており」、だからこそ大学教員を継続してます。ですが、社会心理学、特に社会的認知の研究者として考えたときには、今回の震災時のような認知的多忙状態での啓発の効果について懐疑的にならざるを得ません。理由はいくつかあります。

1.そもそも認知的多忙であり、修正過程が働かない
前回の批判(1)で述べたとおり、私は、震災直後の状況を認知的多忙状態だと考えていました。そして、この状態だからこそ修正過程が働かず、バイアスが強くなるのだ、ヒューリスティック的判断がなされるのだと主張しました。もしこれが正しければ、震災時に修正を働かせるように提言しても、そもそもうまく作動しない可能性があります。

2.多くのヒューリスティック的判断やバイアスは非意識的に生じる
各エントリで指摘しましたが、多くのヒューリスティック的判断やバイアスは非意識的過程を経て生じるので、意識的に監視することができません。知り得たとしても、バイアスがかかった判断結果です(Nisbett & Wilson, 1977)。判断過程がわからないということは、自分の誤りに気づくことが困難であることを意味します。

3.修正しようとこころみてもその修正が過剰、過小の場合もある
仮に提言を理解し、修正を試みるとしても、修正の程度がうまく調整できない場合が多々あります。私たちが判断を下すときには過去経験に基づく知識を用いますが、これは他の知識表象と重なっていることがあります。バイアスを修正するときに不要な知識表象を取り除いた結果、必要な知識の重複部分も削除してしまい、その結果、過剰修正になることがあります(Martin, 1986; Schwarz & Bless, 1992)。さらには、自らのバイアスに関する信念に沿った結果、修正が過剰、過小になることもあります(Wegener & Petty, 1997)。

4.意識的な統制の努力が後に反動を呼ぶこともある
仮にある時点で意識的な統制に成功し、ヒューリスティック的判断やバイアスを抑制することができたとしても、後に統制が外れて、今まで以上にヒューリスティック的判断やバイアスが生じることもあります。これは、意識的統制に用いうる認知資源が有限だからで、それが枯渇した場合、その後の判断や行動の抑制ができなくなります(前田和寛先生のブログエントリの「資源枯渇」を参照してください)。
さらに、ステレオタイプ視の場合には、意識的統制のために、ステレオタイプ的知識を監視し続けることになります。その結果、むしろそのステレオタイプ的知識の活性レベルが上昇してしまい、ステレオタイプ視が強まる可能性があります(Wegner, 1994; Wegner & Erber, 1992)。これは、皮肉効果と呼ばれています。実験してみましょう。「シロクマについて考えないでください。」おそらく、シロクマのことが浮かんできて仕方がないはずです。日頃は、シロクマについて考えないにも関わらず。

5.人の認識は歪むだろうけれども、自分の認識が歪むわけがない、と感じる
ブログエントリを読んで、確かにあるよなあと周囲の人たちの様子を見て思ったかもしれません。「オカン世代はだまされやすいなあ、自分は違うけど」という方もいらっしゃるでしょう。このとき、自分自身の問題を棚上げしている可能性があります。いくつかの理由で、人は、人一般の傾向として心理学の知見を受け入れるものの、自分は例外だと言いやすいのです。いずれ理由について紹介しようと思いますが、ヒューリスティック的判断やバイアスが非意識的過程によるところに源があります。

このように見ていくと、提言なんて意味がないのでは、と思います。少なくとも、自問自答しながら判断をあらためることは困難だと思います。一方で、上述5番目の内容には、同時に可能性を感じていました。たとえ、自分自身の誤りには気づけなくても、周囲の誤りには気づけるかもしれない。そして、その人を説得できるかもしれないと思ったわけです。おそらくケンカになるでしょうが、その中からより適切な判断にたどり着けるかもしれないと思いました。こういうことがなされやすいのがTwitter上だと思うのですが、効果があったかは分かりません。

社会心理学者の仕事として、教育や啓発だけではなく、社会制度に対する提言や介入の提案があるかもしれません。提言をするなら政策提言にしなさいというわけです。そして、これまでそれを怠っていたのではという方もいるでしょう。このような批判があれば、真摯に受け止めます。社会心理学者は、もっと知見を社会に還元すべきだと学会内外から言われています。遅いかもしれませんが、これからの課題です。

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2011年3月23日 (水)

これまでの記事の批判的ふりかえり(1) 状況の非特定

これまでに6つのエントリーをしました。想定よりも多くの方々にお読みいただきましたし、誤りを指摘してくださる方もいらっしゃいました。ありがとうございました。

特に批判的コメントや誤りの指摘はありがたいものです。多くの研究分野で論文を書くときはpeer review制をとっています。つまり、ある研究者の論文や主張を、他の研究者がチェックし、誤りがないか、一定の妥当性があるかチェックしてから論文を刊行するのです。今回ブログエントリをするにあたって、このようなチェックを経ていないことに不安がありました。今回、指摘をいただいたことは、その不安を低減する作用もありました。

とはいえ、僕の6つのエントリが妥当であるといえるかどうか、まだ不安です。自分自身においても、もう少し注意すべきであったと後悔する部分があります。これから数回にわたり、自分の言説に対する批判的ふりかえりをしたいと思います。

第一回は「状況の非特定」という問題です。

今回、もっとも反省しているのは、社会心理学者でありながら、震災後の非被災者がどのような状況に置かれているのかを明示していなかったことです。その状況を証拠とともに特定しておくことは困難だったかもしれませんが、どのような前提を置くか明示することはできたはずです。これを明示した上で、その状況ではこのようなことが起こりえますよ、という提言を行うべきでした。

非被災者は被災者よりも数的に多く、置かれている状況もまちまちだと考えられます。このことは、非被災者向けといっておきながら、すべての人に当てはまらない可能性を示唆しています。個人的には、できるだけ多くの人が該当する状況を考えていたつもりですが、暗黙のウチにというのは話にならないと思います。

今から思うに、僕が想定していた状況をまとめると、「過去に類似経験がないという意味で、新奇な状況」となるのかと思います。このような状況では、過去経験に基づく知識が乏しいために情報価が未知となります。その結果、膨大な情報を処理しなければならなくなると考えられます。同時に、新奇であるが故に、将来予測が困難な不確実状況となります。その結果、情報探索に対する動機づけは高まると考えられます。つまり、処理する情報の量を自ら高めることになるだろうとも考えていました。

このような状況で人はどうなるかを考えた、ということになります。そこで、伝えたかったことは、多くの情報を処理しなければならないために、認知的多忙状態になり、自動的過程に基づくヒューリスティック的な判断への依存が強くなるということでした。ヒューリスティック的判断への依存は、日常でも生じていることですが、その傾向が強まるのだという主張だったと思います。

状況の明示をしなかったのは、手落ちでした。上記のような前提に対する批判もありえるからです。非常に残念なことでした。

その一方で、当初から前提におかないよう心がけたことがあります。それは、不安や恐怖といった感情です。こういった感情要因の影響を否定するものではありませんが、いくつかの理由で、非被災者が不安状況、恐怖状況にあるという考え方をしませんでした。

ひとつは、これらの感情は、新奇な不確実状況下で生じるものだと思ったからです。この場合、不安や恐怖と言った感情は、僕が(暗黙に)前提とした状況の結果となります。紹介した心的プロセスが、不安や恐怖と並行して生じている可能性があると思っていました。ただ、不勉強でこの点について確たることはいえません。

もうひとつは、不安や恐怖にまつわる話をしたとして、実はそのような感情状態にあると自覚できない場合もおおかろうと考えました。すべての感情状態が自覚できるわけではない一方で、人は自分の内観にある程度の確信を持っています(Pronin, 2009などを参照)。感情の話をしても自分には該当しないと無視されることもあると考えました。もちろん、僕が紹介した心的過程についても、自分には該当しないとお考えになった可能性はあります。実のところ、その可能性は非常に高いのですが、またの機会に紹介したいと思います。

いずれにせよ、僕が紹介した話は、ある種の感情状態を仮定しないでも生じうるものだということを補足しておきたいと思います。

震災直後の非被災者がどのような状態に置かれるか、それをどう仮定するかは研究者によって異なる可能性があります。僕とは違って、感情を強調する方もいらっしゃるでしょうし、さらにはコントロール感や自尊心の喪失といった自己脅威状況として語る人もいるだろうと思います。どれが妥当なのかは議論の対象になりますし、前提とする状況で提言も変わってくると思います。その意味で、自分が前提とする状況を特定しなかったのは、最大のミスであると反省しています。

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2011年3月20日 (日)

非被災地のための社会心理学(6)説得メッセージをどう処理しているか

地震発生後1週間以上過ぎ、地震以外のTV番組も増えてきましたが、それでも震災関連の報道が続いています。その他のメディア、ネット上のメディアでも震災関連の情報が提供されています。それらの中には、事実を告げるだけではなくて、意図的であれ、無意図的であれ、私たちの態度をある方向に向けさせようと説得しているものもあるかと思います。

では、私たちは、どのようにして外からの情報、特に説得メッセージから自分の態度を形成、変容させているのでしょうか。これに関して、精緻化見込みモデル(Elaboration Likelihood Model; Petty & Cacioppo, 1986)が一定の答えを用意してくれています。

このモデルによると、外からの説得メッセージを処理するのに2つの経路があります。中心ルートと周辺ルートです。中心ルートは、精緻な情報処理をする経路で、メッセージの内容を入念に吟味し、論拠の質によって態度を形成、変容させます。

これに対し、周辺ルートは、メッセージ内容は吟味せず、周辺手がかりとよばれる要因の影響を受けて態度を形成、変容させます。周辺手がかりとは、メッセージの送り手の魅力だとか、権威だとか、メッセージが長くて専門用語がちりばめられているだとか、メッセージの質と無関連な特徴です。

もし僕のブログの記事を読んでいて、大学の先生の言うことだから間違いないに違いないと思っていたら、それは周辺ルートを経ていて、権威という周辺手がかりの影響を受けていることになります。

さて、どのようなときに中心ルート、もしくは周辺ルートを辿ることになるのでしょうか。精緻化見込みモデルでは、説得メッセージを吟味しようとする動機づけと処理能力がカギを握ると考えています。動機づけは、ここでは関心と言い換えていいでしょう。処理能力は、個人の能力の部分もありますが、メッセージを吟味する余裕があるかどうかという側面もあります。他に考えるべき事があったり、思考を妨害するようなことがあれば処理能力は下がります。中心ルートを辿るには、この動機づけと処理能力が高くなければなりません。これらが低い場合には、周辺ルートを辿ることになります。

今、地震関連トピックに関しては、多くの人が感心を寄せています。その意味では、説得メッセージを吟味する動機づけは高いと言えるかもしれません。他方で、処理能力はどうでしょうか。震災以降、様々な懸案を抱えていて、説得メッセージを十分に吟味する余裕がないかもしれません。もしそうなら、周辺ルートを辿ることになります。

専門家の意見は聞くべきだと思います。その一方で、権威だからと言って無批判に取り入れていくのもいかがなものかと思います。震災に関する様々な問題について、その時々に現れる「権威」の影響を受けて、自分の意見をクルクル変えてはいないでしょうか。コメンテイターの話を無批判に取り入れて、その時々で矛盾した態度をツイッターで表明したりしていないでしょうか。一度振り返ってみてはいかがでしょうか。

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2011年3月19日 (土)

非被災地のための社会心理学(5)カテゴリー依存処理とピースミール処理

少し長くなりますが、私たちが他者を認識するときどういう経路を辿っているかを紹介しておきたいと思います。特に、他者の安定した特徴(性格など)を認識するときどうしているのでしょうか。

まず2つの対照的な処理が存在します。

ひとつは、カテゴリー依存処理です。この処理では、対象人物を特定の集団の一員と見なし、その集団と結びついている知識や感情に基づいて印象を形成します。ステレオタイプ視はここに含まれます。この処理は、自動的な処理で、認知的負担が少なく、時間や心的労力を必要としないと考えられています。

もうひとつは、ピースミール処理です。この処理では、相手の特徴を示す断片的な情報を一つ一つ吟味しながら、印象を形成します。熟慮的で認知的負担が大きく、処理のための時間や心的労力を必要とします。

この2つの処理、どちらが優先されるのでしょうか。Fiske & Neuberg(1990)は、印象形成の連続体モデルを提唱しました。このモデルは、社会心理学において現時点でもっとも妥当なモデルだと考えられています。このモデルによると、印象形成は、自動的なカテゴリー依存処理から始まり、対象人物の特徴に注意を向けながら、徐々に熟慮が必要なピースミール処理に移行すると考えています。つまり、カテゴリー依存処理が優先されるのです。

このモデルに従えば、人を個別的にみて熟慮的に判断するピースミール処理になかなか至らないことになります。熟慮する必要を感じなければ、ピースミール処理に至らないし、熟慮する余裕がなければ、ピースミール処理に至らないことになります。このような場面では、私たちは、カテゴリー依存処理を行い、ステレオタイプに頼ることになります。つまり、相手を偏見を通して見る可能性が高まります。

震災が生じて、不確実なことが多く、先が見通せない昨今です。こういうときには、普段以上に一つ一つのことに熟慮する余裕がないと考えられます。私たちは、知らないうちに、被災した人たち、被爆した人たち、その可能性のある人たちに対し、偏見の目を持ってしまっている可能性があります。また、いわゆる外国人の人たち、社会的マイノリティの方々に対して、いつも以上に偏見の目を持ってしまっている可能性があります。

自覚せよ、といっても始まりませんが、せめてその可能性をご自身にあてはめて考えてみていただきたいと思います。よろしくお願い致します。

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2011年3月17日 (木)

非被災地のための社会心理学(4)基本的帰属の誤り

社会心理学のもっとも重要な主張は、状況が人間の行動を規定するという主張だと思います。もちろん人間には能力やパーソナリティの個人差があり、それらが行動に影響することは否定しません。が、状況のインパクトも相当に大きく、時には個人差と状況とが複雑に絡み合って行動を規定します。

ところで、我々は、ある人物の行動を見ると、その行動の原因を推論します。これを原因帰属(causal attribution)といいます。社会心理学ではこの原因帰属の研究を古くから行ってきました。そこで分かったことは、我々の原因帰属のあり方にはクセがあり、時には誤りを導くということでした。

そのようなクセの一つに、対応バイアス(correspondence bias)もしくは基本的帰属の誤り(fundamental attribution error)があります。これは、状況の影響力に対して、個人の性質(能力だとかパーソナリティとか)の影響力を過大に推定する傾向のことを指します。Jones & Harris(1967)の研究では、実験参加者はある人物が書いた文章を読みました。「その文章は強制して、決まった内容を書かせたのだ」と告げていました。ということは、その人物の真の態度はわからないはずなのですが、実験参加者は「その人物の真の態度は、文章の内容に近いものである」と推定しました。これは、行動に対する状況の影響を無視もしくは軽視したこと、他方でその人物の態度の影響を過大に強くみたことを意味します。

テレビなどを見ていて、この人は説明が上手だなあとか、説明が下手だなあと感じ、その人物について有能だなあとか、無能だなあとか感じているかもしれません。このとき、その推論は正しいかもしれませんが、誤りかもしれません。というのも、状況の影響力を十分に考慮できていない可能性があるからです。説明がうまいのは事前に十分な説明を与えられていたからかもしれません。逆に、説明が下手なのは、事前に十分な準備時間を与えられなかったからかもしれません。

ひょっとしたら、今回の震災について「不幸な目に遭うのは、その人に問題があるからだ」と言う人がいるかもしれません。その言説には深い意味があるのかもしれませんが、個人的には、基本的帰属の誤りを犯していると思います。そして、不幸な人をさらに傷つけることをしていると感じます。

この基本的帰属の誤りがどのようにして生じるのかについても、十分な検討がなされています。少なくとも二段階あると考えられており、(1)まず自動的に行動の原因はその人物にあると考える、(2)意識的に状況要因を考慮し、修正を加える、という過程を経ることが指摘されています(Trope, 1986; Gilbert, 1989)。基本的帰属の誤りは(2)の修正過程が不十分に終わるからだと考えられています。

(2)の修正過程が意識的に行われる、という指摘は重要です。これは、他の懸念事項を抱えていたりして、一つのことについて十分に考えられない場合には、修正が働かなくなることを意味します。つまり、一つのことについて十分に考えられない状況では、基本的帰属の誤りが強まることになります。

震災がおきた今は、一つのことについて十分に考えられない状況だと思います。誰もが懸念事項を抱えていて、いっぱいいっぱいの状況にあると思います。こういうとき、基本的帰属の誤りが強く生じることになります。これにより、人を見誤ることになることになるかもしれませんし、不幸になる人が現れるかもしれません。

この誤りを未然に防ぐ方法を思いつかないのが残念ですが、せめてその可能性を知っておくことで、慎重に考えることができるかもしれないと思い、ここに記しました。

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2011年3月16日 (水)

非被災地のための社会心理学(3)期待確証

私たちは、先入観で人を見ることの怖さをよく知っています。皆さん自身、伝聞だけではなくて、自分の目で確かめることを大事にされているのではないでしょうか。敢えて言います。それだけでは不十分です。その努力だけでは、結果的に先入観の内容を正しいと判断し、それに確信をもってしまう可能性があります。

ダーリーとグロス(1983)の研究は極めて重要です。様々な社会心理学の教科書に載っていますから、詳しい手続きなどはそちらをご覧ください。ここでは、知見として得られたことを述べます。他者をみるとき、私たちは先入観(社会心理学では期待といいます)を与えられても、それだけで相手のことを判断したりしません。与えられた先入観(期待)の内容を仮説とし、それを検証しようと試みます。言い換えると、証拠を集めようとします。ここまでは非常に望ましい展開です。

この先が問題です。証拠を集めようとするとき、私たちは、仮説を支持する証拠ばかりに注目もしくは重視し、支持しない証拠を無視もしくは軽視する傾向にあります。これを期待確証と言います。確証バイアスと呼ばれることもあります。この期待確証によって、支持する証拠が集まる(集める)わけですから、私たちは先入観は正しいと確信をもって判断することになります。先入観は正しいこともありますが、誤っていることもあります。現在のような非常事態では後者の方がおおくなるかもしれません。先入観が誤っていた場合には、誤った判断を確信を持って下すことになります。

ダーリーとグロス(1983)の研究は、人を見るということでしたが、世の中で起きている出来事の認識に対しても適用できます。

ここまで読んで、自分はそのように偏った証拠集めをしたおぼえはないというかもしれません。だから、自分には期待確証のような歪みは当てはまらないというかもしれません。残念ですが、その認識は誤りです。期待確証は無自覚、無意識に生じることが分かっています。工藤(2003)の研究はその可能性を示唆しています。この研究では、血液型性格診断について検討しているのですが、証拠集めの際の確証的偏りに対して、血液型性格診断を信じるかどうかの個人差が影響しないことを示しています。これは、自分の証拠集めの過程を意識的に監視できないからだと解釈されます。

皆さんは冷静であろうと考え、多くの情報に触れようとしているかと思います。その際、確証情報、反証情報両方に触れるよう意識していただきたいと思います。少数の反対意見にも耳を傾けようというのは、昔からよく言われることですが、その姿勢は極めて重要だと思います。

TwitterのTLをずっと眺めていたりしないでしょうか。たくさんのコメントが流れていきますが、その個々のコメントを適切に処理できていない可能性があります。いろいろなコメントが寄せられているはずですが、偏って注目している可能性があり、その結果、偏った認識、判断をしてしまう可能性があります。

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非被災地のための社会心理学(2)社会的証明

ご家庭で、トイレットペーパー、乾電池、カップラーメンがあふれていたりしないでしょうか。ひょっとしたら、消費期限の近づいたおにぎりやパンがあって、食べきれずに困っているかもしれません。もしそうなっているのであれば、おそらくここ数日の間にスーパーなどで大量購入されたのだと思います。それは本当に必要だったでしょうか。

社会心理学では、我々の判断に「社会的証明の原理」が働くことを指摘しています。社会的証明の原理とは、他者が何を正しいと考えているかに基づいて、物事の正しさを判断することを指します。多数の人が行っていることをみて、ああ、自分もそうしないといけないなと判断するというわけです。多くの人がスーパーで先ほどの品物を大量に購入しているのをみて、もしくはニュースなどで買い物客が殺到しているのをみて、自分もそうしなければならないと感じたのであれば、社会的証明の原理に従ったことになります。

この社会的証明の原理に基づく判断は、正しくなることもありますが、誤りを導くこともあります。あたらずとも遠からずの判断を導く簡便な考え方だといえます。社会心理学では、このような簡便な考え方をヒューリスティック的判断と言います。社会的証明の原理に従うことはヒューリスティック的判断です。

ミルグラムたち(1969)は、何の変哲もないビルの窓を見上げている人物の数が増えれば増えるほど、つられて見上げる通行人の数が増加することを見いだしています。これは、他人がしているというだけで、何らかの意味を見いだしていること、そしてそれは数の問題であることを指摘しています。さらには、見上げるのは結果的に無意味だったわけで、周囲に従うことが正しいとは限らないことを示しています。

社会的証明の原理への依存は、状況が曖昧、不確実なときに高まります。まさしく、今、私たちが置かれている状況です。何が正しいか分からないとき、私たちは周囲に流されやすくなります。社会的証明の原理にあらがうことが難しいですが、こんなときだからこそ、論理的に熟慮することが必要なのだと思います。非被災地の人間ができる貢献の一つだと思います。

興味のある方は、次の本もチェックして下さい。第4章が該当します。

チャルディーニ, R. (2007) 影響力の武器(第二版) 誠信書房

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非被災地のための社会心理学(1)少数の法則と適用例(修正版2)

社会心理学者は非常時に臨機応変に動くのが苦手だったりしますが、それでも何か貢献できないかと思い、情報発信することを試みます。急いで作ったので、説明不足や誤りがあるかもしれません。ご指摘ください。

まずは、少数の法則についてです。

大数の法則(law of large numbers)は、著名な統計学上の法則で、母集団から抽出される標本(サンプル)の大きさが大きくなるにつれて、その標本の平均は母集団の平均に近づくという法則です。なるほど、標本の数が増えればふえるほど、母集団の人数に近づきますから、そういった法則が成り立つことは直感的にも理解できるかと思います。逆に言えば、標本の数が少なくなればなるほど、必ずしも母集団の特徴を反映しなくなります。例として次のことを考えてみましょう。

サイコロがある。1から6までの目が出る確率はそれぞれ6分の1である。サイコロを6回振ったとき、1から6までの数字が1回ずつ「必ず」でるだろうか。

でることもあるけど、必ずでじゃないでしょ、ものすごくたくさん振ったなら6分の1になるだろうけど、と思ったならばそれで正解です。

社会場面に置き換えてみましょう。集団で話し合うとき、数人の意見を聞くのではなく、全員の意見を聞かないといけないと感じることはよくありますよね。これは、見方をかえると、調査対象者の数が少ないと、必ずしも全体の意見を反映しているとは言えないと感じているのだと思います。もちろん、きちんと反映することもあるけれど、そうでないこともある。我々は大数の法則を理解している「こともあります。」

一方で、心理学の重要な知見である「小数の法則(law of small numbers)」はあまり知られていないように思います。小数の法則は、残念ながら、我々がもつ誤った信念です。小数の法則とは、母集団からランダムに抜き取った標本(サンプル)は、母集団とあらゆる特徴が類似すると信じることを指します。特に、小さなサンプルであってもその特徴は母集団に類似すると、我々は信じてしまいます。次の例を考えてみましょう。

>コインを10回投げたとする。次のどちらがより起こりやすいと感じるか。 A:表が10回でる。 B:表が5回、裏が5回
追記(2011/3/16 12:56) 申し訳ありません。上記の例は誤りです。下記コメント欄にあるように、多くの方からご指摘をいただきました。ありがとうございました。例としては、コインを10回投げたときに、

 A: 表表表表表表表表表表
 B: 表裏裏表表裏裏表表裏

でどちらが起こりやすいと考えるかとなります。訂正させてください。


実はいずれも同確率。でも、Bだと思ってしまいます。そこに「小数の法則」が働いています。大数の法則で見たとおり、小数のサンプルでは母集団の特徴を反映しないことがあるのですが、Bの方が母集団の特徴(表が出る確率は2分の1)に類似しているので、より自然だと感じてしまうのです。

我々は大数の法則をある程度理解している一方で、まったく正反対のことを信じているふしがあります。特に、小数の法則は、熟慮できないときに使われやすいこともわかっています。

社会場面に置き換えてみます。
(適用例1)「ある地域で非常に高い測定値が得られた。ああ、もうダメだ。」と考えて、いますぐ西に逃げようと考えたりしていないでしょうか。その判断、正しい可能性も否定はしませんが、その前にすべての地域にあてはまるのか、もっとたくさんの情報を集めてみてもいい気がします。

(適用例2)マナーの悪い報道関係者がいた。これだからマスコミはだめなんだ。報道関係者全体の文化的な問題かもしれませんが、一部の関係者の問題かもしれません。この適用例に関しては、バリエーションがありえます。「Aな集団Bのメンバーがいた。これだから集団BはAなのだ」という図式で、AとBにはいろいろあてはめられます。

(適用例3)現在、被災地からの情報が続々と寄せられています。特に、各地域からの中継という形で、その地域で足りないものが報道されたりします。これをみて、ああ、被災地全体でこれが足りないんだなあと過度に一般化したりしていないでしょうか。もちろん、それが正しい可能性もあります。被災地の状況には共通点が多くあることでしょう。他方で、その被災地単独の問題も存在するはずです。少数の事例をみただけではそれは判断できません。少数の事例から、全体傾向を推測することは困難です。少数の事例を見て、みんなで被災地にこれこれを送ろうだとか、将来自分のところでもこれが足りなくなるに違いないから買っておこうと判断するのは誤りを導く可能性があります。


被災地のために非被災地の人間ができることはたくさんあります。その中のひとつに、冷静に判断する、ということがあると思います。その一助になれば幸いです。

追記(2011年3月17日21時21分)
 このブログエントリーには、誤りや誤解を招く表現がありました。このブログエントリに関するコメントを是非ご覧下さい。詳しく説明をいただいています。特に「通りすがり」様のご指摘は有用であり、この種の話をより詳しく知ることができます。ご一読下さい。
 今回、ご指摘をいただいたことで、エントリを削除することも考えましたが、自戒の意味をこめて、そのまま掲載を続けることとします。混乱された方には心よりお詫び申し上げます。

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